頭と心・体の速度の差が生むくるしさ

どうも。赤ペン先生は雪の宿派です。

ちょうど生理周期なのもあって、気持ちがかなりナーバスです。

 

今回は、自分の困っている中で、たまにキリキリとストレスになりがちなことについて書こうと思う。

 

自分の思考と実行の間には、たくさんの制約とそれによる矛盾を抱えがちだ。

 

まあ、誰しもそういうものだと思うが、自分の場合、その制約と矛盾性によく悩まされることが多い。

 

例えば、

人に無理をさせたくない、が、人に無理をさせないと私を保つことはできない

とか

好きな人とずっと一緒にいたいと思う、けれども、現実ではそんなことを誰も許してくれない

とか

誰かに助けてほしいけど、私は助けられない

とかかなり無茶苦茶なのだ。

 

特に、孤独な気分になった時と、誰かを助けたいと思った時は最悪である。

 

孤独な気分になった時、私は、誰かにそばにいてほしいと思う。けれども、その「誰か」は本当に誰でもいいわけではなく、私自身を理解してくれる人がそばにいることを願う。けれども、私自身は私を説明するのがとても苦手で、大抵あまり理解してもらえない。また、そばに誰かいると逆に気を使ってしまって疲れてしまうから、誰もこないことも同時に願ってしまう。かなり無茶苦茶だ。

こういう時の「さみしい」は、何も話さずともそばにいてほしい、ただそれだけなのである。でも、それが叶うことはない。この矛盾性に苦しむ。

 

また、誰かを助けたいと思った時、私は誰かを助けるだけの力がない。具体的に言えば、誰かを助けられるほどの知識や財力、瞬発力、身軽さ、そういうものがない。かといって、気の利いた言葉をかけられるわけでもない。せいぜい出来るのは、その人の問題が解決できることを願うことと、その苦しみを聞いて理解することしかできない。

これはこれでとても苦しい。見限ってしまったり、知らないふりをしてしまえばきっと楽になれるのだろうとは思う。しかし、そんなことができるはずもなく、私はやっぱり苦しむのだ。

 

あとは、人に甘えるのが苦手だ。具体的に言うと、うまいこと、相手の負担にならないようにタイミングを見計らって甘えるのが苦手だ。私は、相手の状況を察知するのが少し遅い。だから、相手がしんどそうなのにもかかわらず、甘えてしまうことがある。

これは、リアルで顔を合わせていないともっとひどくなる。相手から状況を説明されないと、状況を察知できなのだ。いうなら、相手の連絡頻度を鑑みて、「今は辛い時期なのかな」と察知することが苦手なのだ。

でもこういう時、私自身には「相手に無理をさせたくない」と強く思う気持ちはある。けれども、私自身もとても辛くなった時に甘えたいと思ってしまうので、「でもどうしても甘えたい」という気持ちが同居してしまう。

この矛盾を抱えたまま行動してしまうから、また相手を疲弊させてしまう。

 

 

他にも、「しんどいけれど、立場や作業上これを手放すことができない」「疲れたけれど、これを抱えざるをえない」「〇〇だけれど〇〇しなければならない」「〇〇したいけれど細かい事情で〇〇できない」こんなことばっかりだ。

 

結果、精神はストレスや作業で疲弊しているのに、いろんなものを抱え込む羽目になる。心は「こうしたい」と強く望むのに、体と現実が追いついてくれない。

 

もっと楽に生きられたらってとても思う。

矛盾性を抱えずに生きられたら、割り切って生きられたらどんなに楽だろうかと。

もっと身軽に生きていけたらどんなに楽だろうか。翼があるように軽やかにたくさんの物事をこなしていく人たちが、とてもとても羨ましい。

 

だけれど…作業の遅さは私自身の特性だし、そのせいでいろんなものに縛られてしまうのだとも思うので、諦めるしかないのだろうかとも思う。

 

頭では理解しているけれど、心が追いついてくれない。頭は理解しているのに、精神が追いついてくれない。苦しい。

 

追伸として、ずっと一緒に生きるか否か、という話があるが、それについても、私の抱える気持ちは複雑だ。

本音を言うなら、私は一緒に生きたい。けれども、もし相手が死にたいと言った時、果たして私に止める権利があるのかどうかがわからない。

相手の人が死にたいとなった経緯はきっといろいろある。話すだけじゃ伝わらないくらい辛いこともいっぱいあったのだろうし、命を終わらせたいと思うほど、生きるのに疲れてしまっているのだろうとも思う。

そんな人に、「私はあなたが死ぬと辛いから生きてほしい」なんて軽々しく言えるだろうか?私が辛い、ただそれだけで、さらに疲弊してくださいなんて言えるだろうか?

 

そんな矛盾性が辛い。「私は辛い」を人に素直に伝えることが、許されることだと思っていないから、とても辛い。