『最期の旅路』の考察・解釈・感想などなど

※注:この記事は、以下の動画を見て感じたことを書いたものです。鈴の音と練りに練られた歌詞がとても胸に刺さる良い曲なので、ぜひ。

nico.ms

 

 

 

赤ペン先生は雪の宿派です。

今回は、この前に友達がオリジナル曲を投稿してたので聞いてみたところ、あまりにも好きすぎたので、勝手に考察というか、解釈というか、想像したものなどをここに書いてみようと思います。(友達に送りつけてもいいけど、かなり長くなるし流石に気がひけるから送ってやんないw)

 

【歌詞の考察】

動画のコメントで掛言葉や場所の解説が乗っているので、ここでは歌詞に沿って自分が考察したことを書いていこうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※ここから先は自己解釈です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (太字:歌詞)

【一番】

西国古道 巡礼道

隣にいた妻はもういない

楽しみにしてた 行き先は

果無飛鳥 そして橋立

- 今歩いている場所の説明と自分の状況が語られている。 生前妻と楽しみにしながら「行こうね」と話していた行先は、果無、飛鳥、そして橋立である。二人は旅好きなのだろうか?仲の良かったことがよくうかがえる。 -

 

 

福崎で仆れた 想いを懐に

谷汲までの先達を務めん

病に侵されて 先は長くない

人生最期の旅路 寂かに進む

- 福崎で仆れ、命を失った妻の想い(これがのちの小さい伏線になる)を懐に入れ、谷汲まで決意を胸にしながら静かに歩く場面。

先達は、『案内人』や『信者が修行のために山に入る際の指導者』などの意味を持つが、今回はなんとなく前者の意味を持っているように感じる。(西国古道自体は、修験者が修行のために寺を回るための山道のことを指すと考えられるので、その意味で考えれば後者の方が正しいのであろうが…んー…)

彼自身も病に侵されてしまい、この旅が最期になることを悟っている(もしくは、この旅を最期にしようと決めているのかもしれない)。「静か」を「寂か」と表記しているところで、老人の一人静かに寂しげに歩いている様子が目に浮かぶ。 -

 

 

残された私はどこへ行くの

沈みゆく夕陽は御霊焼くの

茅の宿いつもよりも広く

残された時を一人思う

 

- 掛言葉が続くところであり、個人的にもリズムが良くてとても好きなところ。

どこが何に掛かってるかは動画コメ参照。

「沈みゆく夕陽は御霊焼くの」というところに、宗教っぽい空気が漂う。

時間軸としては、妻が死んだ後葬儀(葬い?)を済ませてすぐに泊まった宿か?

一人歩く老人の漠然とした不安と一人で死にゆくことへの恐れ、「旅の中で死にゆくのだろう」という思い、そして、今までは共にいた妻がもう今はいないことに対する孤独感が感じ取れる。 

個人的に前半二文が、神秘さも纏っててとても好き。 -

 

【二番】

懐に文をしたためて 出師表とする

身が持つ限り恩に報いんと

なれば妻が行きたいと言った橋立まで

懐の遺灰撒きに行こう

 

- 老人の決意を表す歌詞。

出師表とは、臣下が出陣する際に君主に奉る文書のことであり、諸葛亮孔明劉禅に送ったものが有名で、その悲痛な決意は「これを読んで泣かないのは忠義の士ではない」と言わしめられたほど。

話が逸れたが、この歌に出てくる老人は、非常に妻を愛していたことが歌の端々から感じ取れる。したがって、この出師表は、今は亡き妻に宛てて書かれたものであり、その中身は「自分の身が持つ限り、妻であるあなたへの恩に報いよう」という決意が書かれたものであるとここの歌詞から予想される。ここからも、老人が妻を深く愛しており、また共に生きてくれたことに対して深く忠義を感じていることがうかがえる。また、その恩に報いるために、生前行きたいと言っていたところまでは必ずたどり着こうという悲痛な決意は、非常に胸を打たれる。(正直この歌詞だけでも泣ける)

また、ここで出てくる「懐の遺灰」は、一番で出てきた「福崎で仆れた妻の想い」にあたる部分であると考えられ、また、出師表ももしかしたら、この遺灰に一緒に包まれているのかもしれない。-

 

紀伊の山々も 瀬田の唐橋

妻と歩んだ一期の茨道

野分の爪痕は 時代の道標

時を違えた私はただ朽ちるだけ 

 

- 前半は妻と一緒に巡った場所を走馬灯のように思いかえしており、後半は山中で見つけた野分(=台風)の災害の跡を見ながら、自分の命が刻一刻と短くなっていることを実感する歌詞になっている。

台風の災害の爪痕は、おそらく倒木がそのままになっていたり、落石がそのままになっていたりするところを指しているのだろうと思われる。奈良時代のあたりは、大きな災害が起こると、それが静まることを願って元号が変えられたことから、大きな台風災害の跡を『時代の道標』と表現しているのではないかと推測する。しかし、現代ではそのようなことは当然行われないので、「(そのような時代とは)時を違えてしまった私」は、ただ老いて朽ちていくだけだ、と半ば諦観しているのだろうと思われる。 -

 

大江山 神が宿る颪

成相まで私を導いてく

妻の最期の願いを叶えてと

一言祈って山を下って行く

 

- 語句の説明は動画コメ(ry

大江山に「一言祈れば必ず願いを叶えてくれる寺」があるのか否かはわからないが、神とこの寺は結びつきがあると思われる。

「妻の最期の願い」が何であったか、というのを考えると、今までも「橋立へ行きたい」と言っていたと歌詞の中で述べられていることから、橋立へその身と一緒に行くことであると、予想されるが、真実がどうなのかはこの老人と作者のみが知っていることである

個人的には、ここが一つ、彼がもうすぐ力尽きてしまうかもしれないという暗示を示している箇所なのではないかと推測する。(ここからはなんとなくの話であるが)神が宿る颪、という歌詞には、「願いを叶えてくれる神」以外に、死者である『妻』が含まれているのではないかと思うのだ。なのでわたし的には密かに、この山を下ることで、彼は神の験力とともに、妻の魂も降ろして歩いていくのだろうと思っている(し願っている)-

 

【三番】

鴎は空を舞い 人は地に根付く

空を飛べれば妻のいる国に近づけるだろうか

 

-鴎は海の近くで生息することから、文学などでは「海が近づいてきた」ことを暗示するために使われるが、ここでもその意味で使われていると考えられる。あとは、個人的にこの部分を聞きながら『朝のヨット(山川方夫)』の話を思い浮かべていたが、この鴎が妻の魂や死の暗示を委ねているとするなら、それはそれでとてもそそる。

妻のいる国、というのはおそらく天国(極楽浄土?)を指していると考えられるが、ここから、作者が神道的よりは仏教的な宗教観を前に押し出している、というような感覚を覚える。というのも、神道では死者の国は「黄泉の国」にあたり、土の下にあると考えられているのに対し、仏教では土の下は「地獄」であり、天上に極楽浄土(いわゆる天国)があると考えられているからである。ここでいう「妻のいる国」は、「死者の行く国」であり、かつ「善行を行った魂が行く、空の上にある場所」として捉えられていると考えられるため、『善・悪』の区別があることや死者の国がある場所のことを考えると、多分、仏教側の考えになるのかもしれないなぁと個人的には思っている。(多分このあたりに詳しい人が見たら「違うよ」って言われるかもしれない)-

 

煌めく海は 黄金色に染まり

成相から私を導いてく

懐の四枚の金が鳴った

九世戸は空を漂ってた

 

-橋立にたどり着き、老人が死んでしまう直前に海を眺める場面。

語句の解説は動画(ry

天橋立は神のいる国へと続く橋であるという伝説もあることから、老人の命の火が消えようとしていることが歌詞の端々から伝わってくる。曲も壮大になっていることからも、クライマックスの予兆であることがうかがえる。

「四枚の金」は、(作者(友達)に聞いたところ、「納経帳が関係あるよ」と言われたが、書くと面白くないのであえて詳細は伏せておいて、別の個人的な解釈を載せておく。)終いの鐘」とも捉えられ、(「九世戸(天国の意味)」という語が来ていることからも、)橋立にたどり着いた瞬間に老人が絶命してしまうことを暗示しているとも考えられる。-

 

架かり行く堅洲への橋立

この命も月日のこぼれ種

薄れゆく意識の中叫ぶ

さらば現世妻との思い出よ

 

- 老人の絶命間際。語句の解説は(ry

「この命も月日のこぼれ種」という部分は、解説では実際にあった有名な俳句の一文から取ってきていると書かれていたが、個人的には、老人自身が自分の死を悟り、「自分の命は、所詮長い月日の前で見ればちっぽけで、儚いものなのだ」と時間・自然に対する自分の命の儚さ・無力さを諦観して出た言葉なのではないだろうかと考えている。

また、「薄れゆく意識の中」叫んだ言葉は、胸に強烈な痛さを覚えさせ、この老人に対して追悼の意を覚えさせてしまう。

正直ほんまにここ泣きそう。何回聴いてもきっつい。-

 

次の世でもお前を愛したい

 

- 現世を離れる最後に発した、来世でも寄り添いたいと願う老人の妻への愛の一言。天国から迎えに来た妻に言ったのか、それとも妻の願いを叶えて満足して死んでいった老人の独り言なのかは定かではないが、どっちにしても無理。ほんまに無理。胸が締まる勢い。-

 

共に歩もう谷汲までの道

-個人的には、天国で妻に会えた老人が、橋立を妻と眺めながら語った言葉であると信じてる。もうもはや解釈でもなんでもない。 -

 

 

以上、歌詞の考察・想像したイメージ・コメントなどなどを書いてみた。

最後もはや解釈もくそもなくなってるけど気にしない()

 

【おまけ1:投稿者コメについて】

動画説明欄を見てみると、「このテーマは、別れであり、矛盾であり」と書かれている。

(シリーズ化してくれてないのでわかりにくいのだが)投稿主は、彼自身の中で密かに「別れ」をテーマにした楽曲シリーズを考えており、今回は、その中に含まれる一曲であると考えられる。

 

今回この老人は、現世、つまりこの世とは確かに離別した。また、自分が死ぬ前に妻と死別を経験しているのだから、そういった意味では「別れ」を表しているとも考えられる。しかし、この曲最後の歌詞を見ていると、彼はあの世では妻と再会したのではないかとも捉えることができる。そう考えると、この老人が死んでしまったことは、「現世」との別れではあるが、同時に妻との「再会」であり、また、あの世での旅路、来世への旅の「始まり」であるとも考えることができる。

 

そう考えると、投稿者コメの「矛盾」というのは、『死とは、別れの意味で捉えられることが多い。しかし、また同時に故人との再会の時でもあり、また来世への旅の始まりでもある』という矛盾性の部分に言及されたものなのではないか、と推測できる。

 

あくまで推測なので、ここまでのことを考えているかどうかはわからないが…(けどあの人ならもしかしたらこれ以上のことを考えているかもしれない)

 

【おまけ2:この老人における旅の意味】

曲を聞いてから投稿主である友達に感想を送っていたら、その会話の中で友達からこう告げられた。

 

「実はこれ、丹後国風土記の中にある、イザナギイザナミの話を基にして作ってるねん!」

 

おそらく、「イザナギが、妻であるイザナミが死んでしまったことに耐えられず、黄泉の国まで妻を迎えに行き、現世に連れ帰ろうとする(が、現世に辿り着く直前で失敗してしまう)話」のことを指している(詳細は各自ググってください)と思われるが、いやこれその話でここまでの曲が生まれるとかどういう思考回路してるんや好き(友達ばか)

 

その話から、もう少しだけ考えてみる。

 

先ほど曲の解釈(考察?)を書いたところでは、「老人はこの旅が最期になると悟っている」と私は書いた。しかし、丹後国風土記の話を基にしたのと考えるのなら、おそらくこの老人は、死んだ妻に会いに行くために、この橋立までの最期の旅に出た、つまり、『最初から死にに行くつもりでこの旅に出たのではないか』と考える方が正しいかもしれないと思われるのだ。

 

そう考えると、老人がこの旅で抱いていた願いは叶えられたことになる。

妻の願いを叶えて、と老人は神に祈ったが、その言葉の裏には、自分自身の「妻に会いたい」という願いも込められていたのではないか、そして神は、その願いどうり、妻の「夫と橋立が見たい」という願いも、老人の「妻にもう一度会いたい」という願いも叶えたことになるのではないか。

 

しかし、この結論に至る前に一つ難点がある。それは、大江山で出てきたこの寺は、「一言で願われた願いを叶える」と言われている点である。妻の願いも老人の願いも祈ろうと思うと、どうしても一言では収まらない。と考えると、この願いを神に祈っていた時、実は… って考えると、もっと味が増してくる気がする。あくまで私自身の勝手な解釈だが。

 

 

…と、ここまでつらつらと考察や解釈、想像、感想を述べてきたが、人によって捉え方は千差万別であり、この解釈が必ずしも正しいというわけでは決してない。(実際多分どっかおかしい気もしてるし)また、投稿主自身、「伏線をあえて回収しないようないろんな解釈の余地を残した曲」を作るのが好きとかいう若干意地悪ところがあるため、いろんな解釈で溢れることを願っていると思う。それのどこかが投稿主の琴線に触れたなら、それこそ作者冥利につきるといったものだろう。

 

なので、あなたも、ぜひいろんなことを考えながらこの曲を聞いてほしい。願わくば、その考察とか述べてもらえれば、とてもとても嬉しい。

 

【追伸】

個人的に思うけど、恋人がいたら、こんなことを言い合えるような最期を迎えられるような関係でありたいなぁって強く思う。